「志望校、変えようと思う。」
夕飯のあと、娘はやけに落ち着いた声でそう言った。唐突なのに、どこか準備してきた言い方だった。私は思わず手を止めた。「どうしたの?」と聞くと、娘はテーブルに視線を落としたまま、志望校名を口にした。
今まで話していた学校より、偏差値が10ほど低い学校だった。
一瞬、言葉が出なかった。
頭の中に浮かんだのは、去年の文化祭の光景だった。人であふれる校門をくぐったときの娘の顔。制服を着た先輩たちを見て、「かっこいいね」と何度も言っていた声。帰り道、パンフレットを胸に抱えて、「ここ行きたい」と目を輝かせていた姿。
あの学校は、娘の“夢”だったはずだ。
「なんで?」とできるだけ普通に聞いた。
娘は少し考えてから言った。「こっちの方が、校風が合ってる気がするし。通学も楽だし。それに、部活も楽しそうだった。」
理由はちゃんとしていた。大人が聞けば納得する説明。否定する隙がないくらい、きれいに整理されていた。
でも、胸のどこかがざわついた。
本当じゃない。
そう感じてしまった。
最近の模試結果が頭をよぎる。あと少し届かない判定。伸びきらない算数。結果を見るたび、娘の表情が少しずつ静かになっていったこと。志望校の話を、いつの間にか自分からしなくなっていたこと。
「無理かも」なんて一度も言わなかった。でも、言わないまま諦め始めていたのかもしれない。
「そっか、いい学校だよね。」
私はそう答えた。否定してはいけない気がした。
娘はほっとしたように笑った。「うん、なんか気が楽になった。」
その言葉が、胸に刺さった。
気が楽になった——。
それは、前を向いたからじゃない。背負っていたものを降ろした安心にも聞こえた。
私は急に怖くなった。この子は、夢を手放したんじゃなくて、“届かない自分”を守ろうとしているんじゃないか。失敗する前に、目標を下げてしまえば傷つかなくて済む。そんな選択をさせてしまったのは、私じゃないのか。
模試のたびにため息をついたこと。
「次は上げたいね」と何度も言ったこと。
無意識に、結果で安心したり落ち込んだりしていたこと。
全部、見せてしまっていた。
娘は静かに続けた。「だってさ、チャレンジして落ちたら嫌じゃん。」笑いながら言ったけれど、目は笑っていなかった。
私は何も言えなかった。
挑戦する前から安全な場所を選ぶようになったのは、慎重になったからじゃない。失敗したときの空気を、この子が知ってしまったからかもしれない。
リビングが静かになる。時計の音だけが聞こえる。
どうしたらいいんだろう。
夢をもう一度追わせるべきなのか。無理に背中を押すのは違う気もする。でも、このまま「そうだね」と受け入れてしまったら、本当の気持ちを閉じ込めたままにならないだろうか。
娘が立ち上がり、「お風呂入ってくるね」と言った。その背中は、少しだけ大人びて見えた。諦めることを覚えた人の背中だった。
私は一人、文化祭のパンフレットを思い出していた。まだ本棚のどこかにあるはずだ。角が折れるほど何度も開いていたあの冊子。
夢を持つことは、時々痛い。けれど、痛みを避けることだけを覚えてほしくはない。
——でも、どう言えばいいんだろう。
応援したいのに、押しつけになりそうで。信じたいのに、期待に聞こえそうで。
湯船の音が聞こえる中、私はテーブルに残った娘のノートを閉じた。そこには、何度も解き直した跡が残っていた。まだ、諦めきっていない字だった。
たぶん、この子は答えを決めたわけじゃない。ただ、傷つかない場所を探している途中なのだ。
私は深く息を吸った。
明日、聞いてみようと思う。「本当は、どうしたい?」と。結果の話じゃなくて、怖い気持ちの方を。
正解は分からない。でも、夢を小さくする理由が“私”であることだけは、もうやめたいと思った。


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