玄関のドアが開いた音で、私は時計を見た。21時10分。予定より少し遅い。おかえり、と声をかける前に、どん、と鈍い音がした。振り向くと、息子が塾バッグを床に落としていた。いや、落としたというより、もう持っていられなかったのだと思う。
黒いバッグは異様に膨らんでいた。予習シリーズ、演習問題集、計算、理科の資料集、ノート、びっしり書き込まれたプリントファイル。それに水筒と、空になった弁当箱。
私は何気なく持ち上げようとして、思わず「重っ」と声が出た。両手でやっと持てる重さだった。
「今日多かったの?」と聞くと、息子は靴を脱ぎながら「べつに」とだけ答えた。顔を上げない。ランドセルを背負っていた頃は、帰ってくるなり今日の出来事を一気に話していたのに、最近は言葉が少ない。疲れているのだろうと思っていた。でも、その日、何かが違った。
夕飯を温め直している間、息子は椅子に座ったまま動かなかった。手も洗わず、ぼんやりとテーブルを見ている。「先に手、洗ってきなさい」そう言うと、小さくうなずいて立ち上がった。その背中が、少し丸く見えた。
食事中もほとんど話さない。「授業どうだった?」と聞いても、「普通」。テストは?「まあまあ」。それ以上続かない。私は気まずくなって、必要以上に明るい声を出した。「もうすぐ組分けだね、頑張りどころだね」。その瞬間、息子の箸が止まった。
ほんの一秒。でも、確かに止まった。
何も言わず、また食べ始めた。その沈黙が妙に長く感じられた。
食後、バッグの中身を整理しようとしてファスナーを開けた。プリントが折れ曲がり、ノートの角が潰れている。急いで詰め込んだのだろう。底の方から、小さなメモが出てきた。「宿題:演問:基本、トレーニング、練習・・・」。赤字で丸が付いていた。こんな量を、毎回背負っているのかと思った。
ふと、今日の帰り道を想像した。夜の駅。眠そうな顔の子どもたち。大人に挟まれて立つ小さな体。その肩に、この重さが乗っている。
いや、違う。乗っているのは教材だけじゃない。
次のクラス。。。偏差値。。。先生の言葉。。。そして親の期待。。。
全部まとめて、あのバッグに入っている気がした。
風呂から上がった息子は、そのままソファに倒れ込んだ。「宿題やる?」と聞くと、「あとで」と目を閉じたまま答えた。私は何か言いかけて、やめた。正しい言葉が分からなかった。
しばらくして、寝息が聞こえ始めた。まだ髪も乾いていない。私はタオルを持ってきて、そっと頭を拭いた。近くで見ると、指にはまだにうっすら鉛筆の汚れが残っていた。今日一日、どれだけ机に向かっていたのだろう。
小さな肩だった。去年まで、公園で走り回っていた肩。ゲームの話を止まらずにしていた声。いつからこんなに静かになったのだろう。
私はバッグを持ち上げ、壁際に立てかけた。ずしりと腕に重みが残る。この重さを、毎週、何度も。文句も言わず。
——黙っていたのは、我慢していたからなのかもしれない。
翌朝、少しでも軽くしようと、使わない教材を抜き出してみた。でも手が止まった。これも必要、あれも必要。削れるものが見つからない。中学受験とは、こういうことなのだと改めて思い知らされる。
朝食の席で、息子はいつも通り「いってきます」と言った。昨日と同じ顔。でも私は、少しだけ違う気持ちで送り出した。
玄関でバッグを背負う姿を見て、思わず声をかけた。「重い?」息子は少し考えてから、「まあね」と笑った。その笑顔が、妙に大人びて見えた。
ドアが閉まったあと、私はしばらく動けなかった。軽くしてあげたいのに、できないものがある。代わりに背負ってあげられないものがある。
せめて、帰ってきたときくらいは、降ろせる場所でありたい。そう思いながら、静かな玄関に残った靴をそろえた。


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