「今日は、もうやめようか。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。時計は20時3分。演問の練習問題は半分しか終わっていないし、理科の暗記も手つかずだった。いつもの私なら、「あと1ページだけ」「ここまではやろう」と言っていたはずだった。
息子は顔を上げた。「……いいの?」と、確認するように聞く。疑っている目だった。やめていいなんて言われるとは思っていなかったのだろう。
「うん。なんか今日は、もう十分な気がする。」
本当に十分だったのかは分からない。ただ、さっきから鉛筆を持つ手が止まっているのを見ていた。問題を読んでいるのに、目だけが動いていない。頭がもう閉じている合図だった。
しばらく沈黙があって、それから息子が小さく息を吐いた。「じゃあ、片づける。」その声が、少し軽く聞こえた。
テキストを閉じる音が、いつもより柔らかかった。
キッチンに立ちながら、私は少しだけ落ち着かない気持ちになった。本当にこれでいいのだろうか。組分けまであと2週間。周りはきっと進んでいる。今日の遅れが、あとで効いてくるかもしれない。頭の中では、いつもの不安が列を作り始めていた。
そのとき、夫が仕事部屋から出てきて言った。「なんか甘いもの食べたくない?」
息子がすぐに反応した。「アイスある?」
冷凍庫には、週末に買った箱アイスが残っていた。本当は“テストが終わったら”開ける予定だったもの。でも私は少し考えてから、「今日開けちゃおうか」と言った。
3人でテーブルを囲む。勉強道具が片づいた場所に、ハーゲンダッツの箱が置かれるのが妙に新鮮だった。息子はチョコ味を選び、夫はバニラ、私はいちご。たったそれだけなのに、空気がゆるんだ。
「今日さ、塾でさ」
息子が急に話し始めた。最近あまり聞けなかった、塾の話。先生が変な例えをしたこと、隣の席の子が消しゴムを3回も落としたこと、帰りの電車で同じクラスの子と笑ったこと。
私は相づちを打ちながら気づいた。勉強の進み具合を確認しない会話は、こんなにも自然なんだと。
夫が「それで算数はどうだった?」と聞きかけて、私と目が合い、少し笑って言い直した。「いや、やっぱりいいや。今日は休みの日だな。」
息子が笑った。「なにそれ。」
その笑い声を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。ここ最近、家の中に足りなかった音だった。
アイスが少し溶けて、スプーンから落ちそうになる。「早く食べなよ」と言うと、「分かってるって」と笑いながら口に運ぶ。その何気ないやり取りが、なぜか懐かしかった。
中学受験を始めてから、毎日が“意味のある時間”で埋まっていた。無駄にしないように、遅れないように、少しでも前へ進むように。でも今、アイスを食べているこの時間は、たぶん何の役にも立たない。
それなのに、今日一番大事な時間のように思えた。
息子が空になったカップを見せて言った。「明日、ちゃんとやるよ。」
私は「うん」とだけ答えた。本当にやるかどうかは分からない。でも、その言葉を信じたいと思った。管理するより、信じる方が少しだけ楽だった。
食べ終わったあとも、三人でくだらない話を続けた。テレビのCMに突っ込みを入れて、意味もなく笑って、気づけば21時30分を過ぎていた。
「そろそろ寝るか」と夫が言い、息子が立ち上がる。「今日、なんかよかったね」とぽつりと言った。
私は驚いて「なにが?」と聞いた。
「なんか、普通だった。」
その言葉に、少しだけ目が熱くなった。
勉強しない日もある。進まない日もある。でも、こうして笑える夜があるなら、きっと大丈夫なのかもしれない。合格に近づいたかどうかは分からない。でも、家族には少し近づいた気がした。
シンクにアイスのスプーンを置きながら、私は思った。今日できなかった問題は、明日やればいい。けれど、今日のこの時間は、今日しかなかったのだと。


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