夜22時。
食洗機の低い音だけが、キッチンに残っていた。リビングのテーブルには、消しゴムのカスがまだ散らばっている。私はそれを指で集めながら、さっきの自分の声を思い出していた。
「なんでこんな問題もできないの?」
言った瞬間、娘の肩が少しだけ縮んだのを見た。
見たのに、止まれなかった。
時計は21時15分。塾の宿題が終わらないまま、算数のノートが3ページ白紙だった。
「今日、何してたの?」
本当は知っている。学校から帰って、少しだけソファで寝ていたこと。疲れているのも分かっていた。それでも口から出たのは責める言葉だった。
娘は黙って鉛筆を動かしていた。泣きもしない。ただ、静かに。その静けさが、余計に私を焦らせた。
——このままじゃ間に合わない。
頭の中には、塾の面談で言われた言葉が何度も繰り返されていた。
「今が踏ん張りどころだよ」
踏ん張っているのは、誰なんだろう。娘?それとも、私?
「もう一回やり直して」そう言ったとき、娘が小さく息を吐いた。
ため息だったのかもしれない。その瞬間、胸の奥がチクッとした。でも私は気づかないふりをした。正しいことを言っているのだから、仕方ないと自分に言い聞かせた。
中学受験は親のサポートが大事。みんなやっている。ここで甘やかしたら終わる。そう思っていた。思い込もうとしていた。
夜22時。
娘は先に寝室へ行った。
「おやすみ」
いつもより小さい声だった。
私は「おやすみ」と返したけれど、続けて言うはずだった言葉が出てこなかった。
「頑張ってるね」たったそれだけなのに。言おうとすると、なぜか喉が詰まった。
頑張っているのは分かっている。誰よりも近くで見ているのだから。
重い塾バッグ。眠そうな朝。テストのたびに揺れる表情。全部知っている。
なのに私は、結果しか見ていなかった。リビングに戻ると、ノートが開いたままだった。途中で止まった計算式。何度も書き直した跡。筆圧が途中から弱くなっている。
ページの端に、小さな字で書かれていた。
「むずかしい」
それを見た瞬間、涙が落ちた。
私は椅子に座ったまま動けなくなった。あの子は、できないことを隠そうとしていたわけじゃない。ただ、一人で越えようとしていたんだ。私は横で、締切と偏差値ばかり数えていた。
スマホを開くと、ママ友のグループLINEが光っていた。「うちは今回上がったよ!」「算数先生が変わって良くなったかも!」
比べて、焦って、怖くなって。その不安を、私は娘に渡していた。
守るはずなのに。時計は22時30分。
寝室のドアの前に立った。開けようとして、手が止まる。今さら何を言えばいいんだろう。叱ったあとに優しくするのは、ずるい気がした。
でも、このまま明日になる方がもっと怖かった。そっとドアを開けると、娘はもう眠っていた。参考書が枕元に置いたまま。寝顔は、小さい頃と変わらなかった。
私はベッドの横に座った。
「……ごめんね」
声に出すと、また涙が出た。起こさないように、小さく頭を撫でた。この子は、戦っている。
私に勝つためでも、誰かに勝つためでもなく、自分なりに前へ進もうとしている。なのに私は、応援団じゃなく監督になっていた。正解ばかり探して、心を置き去りにしていた。
娘が少し寝返りを打った。
「……ママ」
寝言のような声。
それだけで胸が締め付けられた。私はやっと、心の中で言えた。
頑張ってるね。
本当は、ずっと言いたかった言葉だった。明日、ちゃんと伝えよう。結果じゃなくて、今日机に向かったことを。眠いのに鉛筆を持ったことを。合格より先に、守らなきゃいけないものがある。部屋を出る前、もう一度振り返った。
静かな寝息を聞きながら思った。今日も私は、完璧な親にはなれなかった。
でも——
明日は、少し優しくなれる気がした。


コメント