序章:ジェットコースターの誘惑
静まり返ったリビングの片隅で、私は冷めたコーヒーを握りしめていた。
中学受験の伴走が始まって以来、私を苛むのは肉体的な疲労ではない。「このペースで、本当に間に合うのか?」という、未来への底知れぬ不安だ。
長女は、努力家で、勉強が好きで、そして何より「塾が楽しい」と言ってくれる、理想的な受験生だ。彼女の筆箱には、芯の丸い鉛筆が何本もある。その一本一本が、彼女の着実な一歩を物語っているはずなのに。
しかし、保護者会で聞くのは、常に「危機感」と「スピードアップ」の警鐘ばかりだ。まるで、娘の歩みを信頼せず、「受験界の標準ペース」という名の、猛烈なジェットコースターの座席に無理やり押し込もうとするもう一人の自分が、私の中に住みついていた。娘の才能と、親の焦燥。それが激しく衝突した。
1.笑い声が途切れた夜
「今日、塾の先生が褒めてくれたんだ!この問題、自分で解けたの!」
目を輝かせ、満面の笑みで報告する娘に、私は反射的に言葉を被せた。
「すごいね。じゃあ、その勢いで、上のクラスの宿題も少しやってみようか?時間はもう、そんなに残されていないんだから」
娘の顔から、一瞬曇った。彼女はただ、頷くことも反発することもなく、小さく唇を噛んだ。彼女の手にあったのは、達成感という名の小さなメダルだったはずだ。それなのに私は、次のノルマを押し付けてしまった。
娘は、自分のペースで達成感を噛みしめながら、着実に進んでいる。だが、周りの親たちがSNSで公開する「驚異的な進度」という名の幻影が、私の視野を狭めていた。
私は、娘を信じるどころか、娘の「好き」という純粋なエンジンを、外からの「恐怖」や「ノルマ」で動かそうとしていた。それは、娘の人生のハンドルを、私が奪おうとしている行為に他ならない。
2.うっかり者のリスと、弾けるような笑い
そんな、父の焦りが頂点に達していたある夜のことだった。
いつものように、娘は自室で予習ナビを見ていた。私はリビングで書類を広げながら、耳だけを彼女の部屋に向けている。集中しているのか、ただ漫然と聞いているだけなのか。親の目には、常に疑念が影を落とす。
その時、静寂を突き破って、弾けるような笑い声が聞こえてきた。
「キャハハハッ!」
思わず席を立つ。また動画の先生が何か冗談でも言ったのか。
「おい、どうした?そんなに面白いのか」
部屋に入ると、娘は目尻に涙を溜めながら、指でタブレットの画面を指していた。
「見て、パパ!ハリネズミがどんどん大きくなってくるよ!スライド面白すぎるよ!」
彼女が指差すのは、理科の先生。確かに、ハリネズミのスライドと実験で見ごたえのある動画である。しかし、彼女の関心は難易度の高い「入試問題」などではなかった。
偏差値狂いの父親は、彼女の笑い声という予測不能なエラーでフリーズした。目の前のこの子は、入試問題を前にして「苦痛」を感じているのではない。予習ナビをはじめとした「勉強」を楽しんでいるのだ。
彼女にとって勉強とは、誰かに与えられた「タスク」ではなく、自ら選んだ最高の「遊び」であり、「謎解きゲーム」なのだ。
3.最強の才能、そして親の悟り
その夜、私は悟った。
地頭お化けにも勝る、娘の最強の才能とは、「塾が楽しい!」という、この心の内から湧き出るエネルギーだということ。
受験は過酷なマラソンだ。途中で「苦痛だ」と感じたランナーは、どんなに速くても立ち止まる。しかし、「楽しい」という無限のエネルギーを内蔵しているランナーは、親が鞭を打たなくても、勝手に燃料を補給し、勝手にゴールに向かって走り続ける。
私の焦燥は、この最強のエンジンをオーバーヒートさせる騒音でしかなかった。親の仕事は、娘のペースを乱すことではなく、その「楽しい」という純粋なエンジンを守り抜くことだ。
娘のペース=「楽しさ」と「努力」の最大効率化ペース。これが、私たち親が、この伴走で導き出した唯一の結論だった。
翌朝、私は娘に言った。「今日の理科、ハリネズミのスライド、最高に面白かったね」と。彼女は一瞬キョトンとした後、満面の笑みで「うん!」と答えた。
私が彼女に与えるべきは、+αの宿題でも、スピードアップの指示でもない。その笑顔と、難問を物語として楽しむその才能への絶対的な信頼、それだけなのだと、静かに心に誓った。


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